| 越窯青磁小坐仏 | ||||
| H140 | お問合せ | |||
| 時代 | 三国・呉 越窯 | |||
| 銘款 | 無 | |||
| サイズ | 本体高さ6.1cm。黒檀彫刻台高さ:10.3cm | |||
| 仏教はいつから中国へ伝わったか?一番最初の文献記載は「後漢書」の《楚王英伝》にある”為浮屠齋戒祭祀”の一文でした。同文献の《東観漢記》にも”祀浮屠”との記載がありました。考古学上、四川楽山、内蒙古、山東、江蘇など地域で発見された石仏像や壁画は後漢の物とされています。仏教の教議が中国において普遍的に受け入れられたのは北魏、北齋の時代でした。多く金銅佛や大型石造佛像は発見されています。東京国立博物館東洋館にも陳列しています。 当品の保存箱に”六朝神亭”の識書きがあります。分かりやすくするため、まず関連時代の記年順を下に記します: …漢{前漢(西漢)→後漢(東漢)}→三国{魏、呉、蜀}→晋{西晋→(東晋、十六国)}→南北朝{宋→齋→梁→陳、北魏(西魏、東魏)→北齋→北周}→隋→唐… 《三国誌》の最後の章”三国帰一統”には、魏の司馬昭が呉と蜀を滅ぼして、”晋”へ改元し、三国時代を終結させた。晋はまもなく北方諸民族に襲われ、揚子江南岸へ退却して、しばらく”東晋”という小朝廷を維持しました。その時、北方諸民族は混戦状態に落ちました。歴史上”五胡十六国”と呼びますが、実際には百以上の民族集落があったと言われています。 大陸北方の大混沌な時期は140年間が続きました。ようやく鮮卑族の北魏が北方を統一し、南北朝の時代を開きました。 南方の南朝:東晋はまもなく、宋、齋、梁、陳へと分裂して、戦乱が続く状態になりました。 北方の北朝:北魏が長い安定期の末、北齋と北周へ分裂しました。 最終的に北周が中国全土を統一して、”隋”へ改元しました。西晋滅亡から、隋立国まで405年、大陸民族大融和の激動期でした。 歴史上、漢の滅亡から隋の建国までの間、乱世中国の揚子江南岸地方にあった国を合わせて”六朝”で呼びます(三国時代の呉、東晋、南朝の宋、齋、梁、陳)。 |
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越窯は秘色青磁の窯元として知られています。窯の所在地は揚子江中下流域南岸、現江蘇省鎮江あたり、春秋時代の越国でしたからその名前になりました。三国時代には孫権の呉国の首都圏にありました。そので、呉の朝廷用陶磁器を製作していたと言われています。なお、東漢の古墓からも越窯原始青磁とされる遺品がありました。唐の秘色青磁は京都法門寺に数点が収蔵されています。中国では品は発見されていません。唐より以前の越窯遺品は近代の発掘品ですから、日本ではまず見られない品だと思います。 三国両晋時期の越窯青磁期は灰色土の地に灰釉質の青磁です。透明度と光沢はよいものです。青磁の色は黄色帯か、灰色帯どちらかになります。釉薬の溜まるところは青く発色します。千度前後の高温磁器ですから、胎土と表釉の結合はよく、長い歳月で土に埋もれていた状態であった、土沁や、磁貫が入りますが、釉落は酷くはなりません。 本世記三十年代、イギリス考古学者A.D.Brankston氏は”六朝越窯青磁小坐仏”と”仏像付き越窯青磁壺”を発表、それは最初に発見された越窯仏像です。50年代中国考古学者蒋玄怡は”晋青黄釉小坐仏”を発表しました。いずれも、独立した仏像ではなく、器物の一部の残片とのようです。そして、70年代江蘇省鎮江走馬山一号古墓古墓から、三国・呉小坐仏、三国・呉青磁谷倉2点が発見されました。谷倉の肩部に坐仏像があります。単独の小坐仏像と同じ様式のものです。 谷倉:日本は神亭と言います。”明器”です。谷倉についての詳細紹介は当店出品中の”南宋青白磁神亭”ページに詳細の紹介があります。 台湾故宮博物院学術季刊掲載の統計資料によると、今まで発掘されている古越窯青釉器に仏像付きの物は21点がありました。青釉器物に貼る仏像は1〜3尊、谷倉上の仏像数は3,7,11尊がそれぞれあります。この資料から概算すると現存越窯小仏像は百尊を越えません。なお、”六朝”は漢民族集居地にして、その仏教の伝達ルートは、北魏仏教とは違うとの説があった。北魏北齋の石仏や銅佛よりも早い時期の古越窯の仏像は、中国大陸に於ける初期仏教の考証性、または初期青磁や考古学としても重要な遺品であり、国家1級文物です。 最後ですが、古越窯遺品の発掘記録から推理すると、当品は戦時中に日本へ持ち込まれた物だという結論に至ります。その様式は三国時代・呉越窯青磁であり、今までには約千七百年の光陰がありました。 |
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