近代中国景徳鎮粉彩磁絵への回顧
H.カナイ
索引
第一章 粉彩技法の形成期:洋彩としての粉彩
第二章 近代粉彩への転換点:浅絳彩の出現
第三章 粉彩の枝分かれ:同治中興と民画風粉彩の普及
晩清民窯粉彩参考品
民国実用粉彩参考品
第四章 近代粉彩の立役者:珠山八友
珠山画友達
70年代中南海専用磁(水点桃花

以下ほ本文
本文は晩清以降中国近代色絵主流となる粉彩磁絵を重点に於いて、粉彩技法の歴史と現在を紹介します。

近代東洋陶磁史の側面に、中国景徳鎮と日本有田、九谷、そして西洋も含む、染付や赤絵の製作を互い真似き会う事実がありました。不思議なことが、中国近代で形成した粉彩磁絵はなぜか日本は作らなかった。もしかして、粉彩磁絵の風格は日本の風土に似合わないと思うかもしれませんが、古陶磁市場に見て見れば、そうでもないように思います。清の時代の粉彩器は大変な人気がございます。粉彩早期の高級品を除く、清後期一般の民用品の粉彩器もすぐ売れるぐらいの人気です。

では、晩清(光緒、宣統)、民国初期のものは如何ですか、骨董として又若いかと思う方が多いから、それほど目をくれません。さらに進むと、今世紀50年代~70年代(中華人民共和国初期)、または当代(80年代以降)の景徳鎮粉彩器はいかがですか?ほとんどの人は分かりませんと答えるでしょう。

本文は中国近代色絵磁器の主流たる粉彩技法の意外な発展振りをご紹介したいと思います。我々今まで中国陶磁美術に対して持っている理解、思っていた成見を一新するかもしれません。恐らく日本近代陶芸の展開状況は、右記三つのカテゴリ:“和の古“、”唐物写し“、”近代西洋美術“に抑えられると思います。当代工芸美術はますます現代西洋文明頽廃な面からマイナスの影響が強い、”形而上”あるいは“まったく型なし”の文化の氾濫の中で、“中国現代粉彩磁絵“という東洋文化的繊細な面の成就をご紹介したいと思います。

一.粉彩技法の形成期:洋彩としての粉彩

粉彩技法は清康煕年後期(十八世紀初め)に形成されたと言われています。
康煕以前の五彩器の絵付方法は基本的には輪郭を線で下絵してから中に色を塗る技法、あるいは太い筆で直描するでした。深い色を出す場合は重複塗りしていました。

康煕官窯の場合は輪郭線を使わず、階調変化のある絵具を直接絵画する、或いは繊細な工筆絵画のように、細い線で下絵してから、中に色を埋める方法でした。より絵画的な写実な磁絵ができました。“素三彩”や“康煕五彩”と呼ばれます。使用する顔料は既伝の高温色料の“硬彩”です。すなわち、同時期の染付器の絵付方法も南画技法を取り入れられました。初めて、磁絵が中国画技法へ瞄準することにしました。
康煕年にはもう一つ重要な出来事があります。傳教師が持ち込んだ西洋銅胎琺瑯彩絵器を真似ることで、七宝エメラル顔料(琺瑯彩)で磁器を絵付しました。今まで表現できなかった豊富な色調変化と明快的な磁絵に成功しました。琺瑯彩料を調色の時、ベースとする白い不透明なガラス粉(ガラス白と呼ぶ)にエメラル顔料を混ざります。出来た絵具はガラス質でソフトな色調になります。

このような洋風な磁絵は最初”磁胎画琺瑯”と呼ばれます。エメラル顔料は輸入品ですから、康煕年後期の内府は琺瑯彩を“洋彩”と呼んでいました。琺瑯彩絵の技法としては、西洋画の風格も取り入れました

(つまり、官窯品の絵柄は正統皇室の威厳感を表すこと意外、世の藝術性も認められることになりました。)

その時期の景徳鎮は陶芸中興期でもありますが、上記以外もさまざまな絵付け技巧を試作され、多種技法を混ざり合う絵付けの磁器も多く作られています。康煕後期の“洋彩“器の中、一部多く”ガラス白”を使い、粉白質感強いものも製作されました。これは“初期粉彩”と後世の専門家がそう呼びます。(つまり、粉彩技法の形成期にあり、未成熟した技法として、今や古美術業界では、初期粉彩を”粉彩”と呼ばないため、”康煕無粉彩”との諺が成り立っています。)

ここまで分かることは粉彩と琺瑯彩とは根本的な差異はありません。

清早期には“粉彩”の呼び方はなかった。もう一つは康煕年の“洋彩”絵具の配合は西洋琺瑯彩を勉強したため、濃厚でありました。今や“琺瑯彩”と“早期粉彩”を区分する方法として“琺瑯彩の色の部分はてんこ盛りしている、絵具の部分に磁貫が看られる。粉彩はほぼ平滑であり、絵具の部分には磁貫がない”ことです。
清の雍正年、琺瑯彩顔料を国産化できましたため、琺瑯彩の製作はピックな時期を迎えました。同時期、国産エメラル顔料と国産白ガラス粉の調色はより自然な色調で薄めたものは初めて“粉彩”と称しました。

ここまで分かることは、粉彩とは国産エメラル顔料の絵具のこと。 雍正期の“粉彩顔料”はまた白みのすぐない鮮明なものです。絵付も滑らかになり、繊細な工筆花鳥絵が磁器に出来るようになりました。

↓雍正御窯琺瑯彩
 
雍正期粉彩絵法の立役者として紹介しなくではならない人物があった

朗正寧:フランス傳教師、清雍正~乾隆に中国の宮廷画家として活躍しました。彼が西洋画法と中国画法を融和した“線絵法”を開きました。彼が活躍した時期の御制琺瑯彩器(“特殊材料の高級粉彩”と理解してください。)は“線絵法”で絵付けたもの多い、皇室画院に於いて多くの教え子による作品かと言われますが。彼の絵画作品は皇室蔵品として多数存在しますが。自銘入りの磁絵琺瑯器は“一対”しかありません。それも極最近発見されたものです。

一部の出版物には"朗正寧は康煕 雍正 乾隆清王朝三代に仕えた宮廷画師”として紹介したが、清史記録および墓誌により、朗世寧が出現したの雍正~乾隆年なります。この史実から、朗世寧絵の乾隆皇帝像は本物かと思いますが、朗世寧絵の康煕皇帝像はまたたくな嘘であることは分かります。

追伸:内府や官窯所製“xx御覧”、“xx恭製”の落款のあるものは、王様や画師が自分が磁器へ書き込みことを意味するではございません。皇室画院の画師が設計図を作ります。王様は図面を見受けましたら、“御覧”印を押します。実際磁器へ写すのは官窯の絵付技師です。出来ばいは多少筆が固いと見受けられますので、一般概念上の“写し”ではございません。

乾隆年早期には雍正年並に白磁洋彩器が製作されました。ここまで清早期三代の洋彩器は内府や官窯が製作した鑑賞品のみですから、超優良品ばかりです。

乾隆年晩期には色地洋彩は大流行しました。乾隆帝は“十全老人”と自称し、官窯風格は当朝王様の好みを反映して、色絵器の絵付は“富貴豪華”の装飾風になります。琺瑯彩や粉彩と呼ばれる薄い洋彩も黄金期に迎えます。色調濃艶で、粉白質強い絵具の民窯品も出始まりました。
この時期から、民窯品の粉彩絵磁はすでに出現しました。絵具の品質と絵付技能は官窯ものとは比べられないが、これから、粉彩の普及は民画風粉彩絵の展開の契機になりました。

嘉慶年は若干冷やした感じがあります。道光年アヘン戦争が始める、国力空虚のため、官窯の洋彩製作は完全に停止されました。

二.近代粉彩への転換点:浅絳彩の出現
 道光~咸豊~同治初期、アヘン戦争および太平天国の乱のため、景徳鎮は廃窯が多かった。この時期には好いもの作っていなかったと言われています。清の皇室記録≪清档≫には“咸豊年歴時5年中、景徳鎮御窯の生産量は2100件あまり”しかありません。一窯平均200件とすると、5年は10回しかやっていませんということになります。だから“咸豊記年款のものは超レアものです。”

この時期の民窯粉彩器は“粗弊ノ物”と言われています。美術品として収蔵の価値がありません。
しかし、この時期には粉彩発展歴史上重大なできことがありました。当時景徳鎮には安徽省出身の絵付師程門(1833-1908)という人物がいました。元代の画家黄公望の“浅絳山水画”をまねして、磁器に絵付けしていました。水墨画に近い、非常に浅い設色でした。その始まりの理由についてはだれもはっきりとわかりませんが、よほどに黄公望好きの自己表現欲か、もしくは、鮮やかな絵具を手に入らないからどうか絵の風格上でカバーする努力かもしれません。
いずれにしよう、景徳鎮の陶工としてチェンジしなくではもう生きられない時期でした、危機は機会になり、程門家族は磁絵の世家として、 “浅絳彩”の磁絵器を作り続けました。

この新しい風格の絵付磁器は鑑賞用としてよく売れました。段々程家周りに“浅絳彩”を作る絵付師が増えてきました。作品は流通により、段々全国的な話題になって、賛否両論もありながら、“浅絳彩”は景徳鎮の絵付師の生計を支えました。晩清になったところで、この技法は大繁盛な終期を迎えました。
では、年代がちょっと飛びます。
浅絳山水粉彩技法は晩清に於いて、その芸風はすでに普遍的に認められ、上手絵付の技能を磨き上げた絵師も多くなりました(後述べる民国粉彩巨匠の珠山八友の数名もこの時期では、浅絳彩の製作に没頭していた。)。そして、絵画的なものが多い、当時のセレフたちが好む高級装飾磁器になった、人気が高かった。珍しいことですが、特注により陶板に実写的な風景、人物像の浅絳彩絵も出ました。骨董市場に出会う浅絳彩遺品はほとんどこの時期の作品です。

しかし、浅絳彩は欠点がありました。低温色絵として、生産しやすいですが、絵付の色彩は持ちません。数十年も持たず色落ちってしまいます。この欠点は工芸美術品としては、致命的であります。宣統年にはクチコミになって、清王朝と一緒にまったたくその姿が消しました。
今世紀80年代、古陶磁市場一時““浅絳彩熱”が出ました。保存状態のよい年代ものは相場は急騰しました。それは中国全土範囲の人気ですから、景徳鎮はおよび“旧業”を操業はじまった。歴史はいつも繰り返されます、また5年も持たず、“浅絳彩熱”はすっかりと冷え込みました。骨董市場に流れれてる写しはほとんどこの時期のものです。昔ほど真面目につくっていないかと思いますので、これから10年持つどうかは疑います。

浅絳彩は一代粉彩技法として成立した時期がありました。低温磁絵として生まれつき、機能性の欠点がありました。浅絳彩以前の粉彩絵は工筆花鳥、工筆人物など宮廷風格な装飾絵に限られていました。浅絳彩は磁絵に写実的な技法を取り入れたことは、磁器を絵画美術のキャーパスとして、形と色を総合した美術としての近代粉彩絵の扉を開きました。
この章の終了として、墨絵技法簡単に紹介します。

陶磁に墨絵の始まりは題書です。琺瑯彩、粉彩に墨彩を備えたものは清早期から見られます。少ないですから、非常に珍重されます。晩清には、墨がメインな絵具としての“墨絵“や”吹墨“技法の作品は見られます。この時期の墨絵風格は中国水墨画の写意風格を取り入れました。飽きこない文人趣味のものです、現代まで引き続かれました。
(近代日本鍋島吹墨山水もこの分野の技法です。)

三。粉彩の枝分かれ:同治中興と民画風粉彩の普及
清早期三代の洋彩技法は装飾画的な性格はつよい。道光年に出現した浅絳彩は粉彩絵法の一つ分かれ枝にすぎなかったが、装飾よりも絵画的な観点から、近代粉彩絵へ変貌しながら、太く大きく成長しました。
美術史的な観点から、近代粉彩絵美術を粉彩の主流として重点を置くならば、実用陶磁器装飾技法としての粉彩絵は側面的な支流になります。これから、洋彩としても装飾粉彩技法のもうひとつ枝分かれの民画風実用陶磁装飾粉彩をご紹介します。
嘉慶年は4年しかありませんので、陶磁史上後の道光年と併称して“嘉道年”と呼びます。
嘉道粉彩の特徴としては、配色は前代より濃くなります。顔料に粉質の配合は多い。官窯の作風は前代風格を引き続いたですが、絵付の品質上は退歩が見られます。民窯品はまたそれほど普及していないが、貴族たち向けの高級品が多かった。絵付の対象は主に花鳥虫草など装飾風格でした。一部金彩を施した洋風花卉輸出ものもありました。窓絵が多く見られます。
道光年には動物を描く紋様は多く見られます。用色も相当綺麗に見えます。
特書すべきところは、この時期“唐子遊文”や“七宝博古文”や“人物物語文”など民間に根強い人気のある絵柄が粉彩により絵画されました。絵付の風格はまた厳慎でありました。
道光年中にアヘン戦争、次の咸豊年に太平天国の乱の原因で、景徳鎮の陶磁生産は一時中止したこともありました。

 清同治年(西太後は皇後の時代)に、第一次アヘン戦争終結、西洋に勉強しようと一部改良的な思想を持つ役人が任用されました。国中には中興の兆が見られ、景徳鎮におよび官用窯が開かれました。陶磁の品質と粉彩顔料の発色はあまり評判ができません。官窯粉彩は着色濃重、紅緑黄など暖色を多用いた。窓絵はなくなりました。この時期の廉価な民窯粉彩は実用陶磁装として大量生産されました。“双勾埋色”と“小写意”による簡易風な民画風絵付ものは大量に生産されました。唐子遊、伝説や物語、舞台人物、仕女絵、神仙羅漢などなど内容豊富、表情活発、喜慶歓楽の調子が溢れました。

この風格は実用陶磁粉彩絵の基礎を築きました。晩清、民国の実用陶磁粉彩絵風格もこの基調から離れはしなかった。
晩清民窯粉彩参考品
晩清の時代は、清国の大門は西洋の大砲に依って開かれれました。安い輸入品の影響で、景徳鎮の陶業だけではなく、中国民族工業は一時崩壊に頻臨する。この時期康有為など有識な文人立ちは西洋の工業技術を取り込むため、”中学為体、西学為用”を提唱して、洋務運動を展開しました。光緒二十八年、清朝廷は景徳鎮陶磁公司を設置しました。朝廷の主導の下で、景徳鎮の陶業はだんだん復興して、光緒三十三年、商弁江西陶磁公司へ改名して、やがて景徳鎮の陶磁業は工業化の道へ歩みはじまりました。光緒年中後期の陶磁製品は無論数量や品質など回復しました。晩清特有な淡雅の格調を保ちます。特に前朝写しの場合は、”無所不有”と言われています。清の時代に於いて、この時期の景徳鎮の陶芸の評価は早期三代に続く、2番目の評価になります。
宣統年の三年の間、景徳鎮陶業は分業化を進み、新しい材料と新しい技術の開発と改良に成果を挙げました。この時期の作品は光緒年のものより材料と製作は更に精良なりと言われています。なお、近代材料と技術を取り込んだ陶磁製品も面世しました。
宣統二年、景徳鎮に於いて、中国陶業学校設立されいました。民国期の陶磁芸術の発展に人材の準備の役割を果たしました。


この章の最後に駆け足で晩清(光緒年~宣統年)景徳鎮復興期の官窯粉彩を数点紹介します
晩清の景徳鎮粉彩器の絵画は丁寧で、色彩艶麗、前朝(特に乾隆年の)写しは多いです。評価も高いです。

光緒年「大雅齋」落款のものは宮内用品です。粉彩絵付は粉彩伝統な色彩宣染と中国画小写意風格は旨く融合し合い。清意、創意があると評価されます。描きの対象は吉祥とされる花鳥鷺蓮が多いです。
晩清には磁彫作品は非常に活躍していました。造形と絵付を一体化する粉彩藝術として「秋操記念杯」は有名です。
民国実用粉彩参考品
江西陶業公司は世界博覧会に金賞を選らばれました。


民窯粉彩器は低価格帯の古陶磁として、骨董市場にも非常に人気があります。“民俗文化“に細分されるべき品でございます。中に官窯なみの上手ものはたまに出会えます。


四.近代粉彩の立役者:珠山八友
珠山とは景徳鎮の別称であります。晩清~民国初期に数多くの陶磁絵技師は、中国画の技法を陶磁絵へ応用したことで、新しい粉彩磁絵の作品は輩出しました。なかにも人気の高かった絵師8名が(内、何人かは中国陶業学校の絵付先生でした)、1928年に”月園会”を結成し、近代陶磁絵の研究に熱心していました。彼らの遺品は近代中華圏には高額に取引されている事実は、古陶磁愛好者の間に更なる人気を拍車しました。
その故に、現代中国は数多く彼らの作品の写しを製作していますことも、90年代以降には市場価格は冷え込んだ理由になりました。

以下は珠山八友、一人ひとり独特なの作品風格を紹介します。

王琦(1884-1937)、字碧珍,号陶迷道人,江西省新建人。17歳の時景德镇に入り、磁塑製作で生計を立ってました。後、絵付技師潘陶宇に師従し、粉彩人物絵を長す,彼の工筆人物は,筆使いは豪放なり,中国画家黄慎の風格に似ています。彼は“珠山八友”の中、一番成就した絵付技師と評価されています。この業界では、絶大影响を持つ方であります。“陶陶齋”は彼の工作室の名前です。

王大凡(1888—1961年),青年の時から景德镇に於いて、約半世紀の間、磁器絵師の仕事を従事した。“落地粉彩”技法の創始者。民国初年,王琦などと景德镇陶瓷美術研究社を設立,定期的に展覧会を開いた。なお、景德镇工芸日報など数多く専業新聞や雑誌を発行しました。
特長は陶瓷人物画,山水、花鸟とも能す。1915年,彼が絵付けした粉彩人物絵大瓷瓶“富貴寿考”はパナマ世界博覧会金賞を勝ちました。画风は古朴,筆使いは繊細秀麗,構図严格慎重,風格純正。時には借古創新、別具一格,
中華人民共和国時期に景德镇市美術家協会常務理事および江西省美術家協会常务理事に就任していった。

汪野亭(1884—1942)、名平,号傳芳居上,祖籍江西楽平。1906年江西省立窯業学堂入学し,潘淘宇に師従し,初めは花鳥絵を専攻した。後、山水へ転換し,粉彩青緑山水技法を創立。彼の絵付の構図は清初画家“四王”に真似る,用筆剛健,色艶艶麗,彼の画室齋名は“平山草堂”。

程意亭(1895-1948)、名甫,字体孚,齋名佩古齋,别号翥山樵子。祖籍江西楽平,1911年入鄱陽江西窯业学堂图画班入学し,张暁耕、潘匋宇に師す。後上海浙派画家程瑶生へ弟子入りしました。専攻は花鳥絵。彼の作画の構図は独特で、用筆有神,写実と夸張を併用,粉彩花鳥に長す,画風は蒋南沙、恽南田の中間にある。風格蒼劲,筆使は巧妙なり,鳥羽の绒質感を出すのは特技と言われます。成熟と完美な粉彩絵を成就した。

劉雨岑(1904—1969),名玉成、雨城等。别号澹湖渔,六旬后号巧翁。斋名覚盒、飲冰。祖籍安徽省太平县, l918年江西省立甲种工業窯業学校入学、潘勾宇に師して、中国画を勉強した。景徳鎮陶瓷世家朱受之の娘朱秋霞と结婚してから、花鳥走獣絵に専攻。後、景德镇絵瓷名人の王琦に義子入り,王琦と協力して、“瓷業美術研究社”と“月圆会”を創立。
民国時期に,劉雨岑は浮梁県立陶業学校、珠山国瓷芸術専門学校、東方芸術専門学校にで任教,早期の工筆画風格は極めて工整繊細。中年以降恽南田、任伯年等国画家の没骨法を学習して、工筆の技法と併用、その時期の花鳥絵は、布局簡潔,設色清雅。
1954年,中国軽工業部陶瓷研究所にて、芸術室副主任就任。 以来、多く国と地方の陶磁研究機関に任職。刘雨岑の成就は新たな粉彩絵技法“水点技法”の創立であります。この技法の生まれにより、磁絵に中国写意画を描くことは出来ました。50年代中国政府礼賓用品、釣魚台国賓館用品は彼の指導の元で作られたものです。彼の優秀作品は故宫博物院にも收藏されています。

注:其の子の劉平は、1 975年に父が創立した技法を改良し、“水点桃花”技法を持って、共和国官窯と呼ばれる中南海用磁“7501”号瓷器を設計指導した。(この文章の最後に参照。)

徐仲南(1872—1952)名陔,号竹里老人,江西南昌人。若い時南昌瓷器店にて彩磁絵を勉強,1918年江西省陶瓷公司入社、瓷業美術管理者に就任。粉彩装飾画を長す。専攻山水画,松竹絵は特技。“月園会”メンバー。画室名は“棲碧山館”。

毕伯涛(1885—1961),名达,字伯涛,号黄山樵子,祖籍安徽省歙县, 1899年清末代秀才。早年には画家张雲山に師して中国画を勉強した。
民国初期、生計のため、景德镇へ移居後、王琦、王大凡邀請より“月圆会”参加し、瓷絵へ転業。子の毕渊明を江西瓷業公司学徒入りした。
毕伯涛は花瓶、茶盘の絵付に専念した。描くものは八哥、鸳鸯、绶带鸟など鳥類。 風格素雅、用色は绿、黄、黑三色のみ,時には標新立異も見せます。画風は新羅山人派に属す。当时は人気がなく、遺品は極めて少ない。
中華人民共和国初期に、江西省文史館館員として、清史料整理に任用されまた,ため、磁絵生涯に終点を打った。彼は近代景徳鎮磁絵集団の文化品位の提高に功绩が著しい。彼の教え子の多くは近代景徳鎮陶磁芸術家へ成長した、中、子の毕渊明は当代景徳鎮傑出的な代表人物である。

田鶴仙(1 894—1 952),名青,原名田世青,字鹤仙,号梅华主人、荒园老梅,画室名古石斋。浙江绍兴人。,民国初年曾任景德镇税务局职员,后任江西省瓷业公司夜校教员
田鹤仙自幼在抚州曾从施雪江学画山水。民国初期,中年の田氏は景德镇瓷絵名人徐仲南と出会いは機掛けに,瓷絵へ転業。最初は山水画を専攻した。 “月圆会”の後期メンバーになる時、画風は一変し、元代王冕の梅画を効法して,磁器に画梅の先河を開いた。彼の絵付けた梅は、舒展挺秀,浓淡相宜,老幹横斜、梅花奇麗。变化多端。瞬く、景徳鎮に“大器晩成”と絶賛されました。その故、大量な作品が残した。
彼が描いた梅は現代景徳鎮磁絵装飾の流れに重大な影響を及ぼした。彼の描いた梅画は超える人がなく、“一枝独秀”、“独领风骚“と言われます。
(彼が離婚した時、一時仲間に理解されず、月園会から除名したこともありましたため、彼が八友の一と認めない人もいます。)

鄧碧珊(1874—1930)字辟寰,号铁肩子,江西余干人,清末秀才,
粉彩鱼藻画に長す。彼の技法は多く日本画の影响が見られます。诗書画印とも良い。景徳鎮に於いて徳高望重的な存在です。九宫格瓷上画象を創立して、王琦へ傳授した。“珠山八友”のメンバー

珠山画友達

何許人(1882—1940)字徳達、華滋,安徽南陵人。15岁の時景德镇に入り学芸生涯が始まり、初めは染付技法を並ぶ,後粉彩絵へ転換。粉彩雪景山水に長す。民国二年には、詹元广の聘請により、北京へ古瓷写しに専攻。彼の画法は構図严格,用筆洒落,意境深遠。
現代景徳鎮磁絵風格への影响は深い。

王歩(1896-1968)字仁元,  号竹溪道人、陜西豊城人。九歳の時、景德镇に学徒入り,初めは染付画を学習した。後粉彩を専攻した。花卉人物に精を出しています。工筆に写意併用,筆に力は雄健なり。その青花絵は浑厚蒼劲の息が感じます。画風は高手泼墨,风格高雅独特。景徳鎮青花大王”の名号あり、画室名は“愿闻吾過之斎”。




潘淘宇(1887-1926)字鼎鈞,号澹湖外史,祖籍江西波陽。1911年、江西省立甲種工業窯学堂图画講師就任。景德镇を客居して磁絵を制作し、“珠山八友”のメンバーの汪野亭、劉雨岑、程意亭等は、皆彼の门下生徒であった。粉彩花鳥画が長す。筆法は澹雅秀逸。彼の作品はアメリカに於いて、シカゴ博覧会、フィラトフィア博覧会とも、一等賞に選ばれました。彼の名誉と事業は景徳鎮の太陽の如く。画室名“古歓斎”。

汪暁棠(1885—1924)名棣,号龍山樵子,祖籍江西婺源。若年時杭州にて絹扇の絵画で生計を立ってました。光绪四年に景徳鎮に入り、磁画を製作始まる。粉彩人物に長す,特に仕女画に精を出していた。彼が画した女性像は、造形優雅,姿態軽盈,衣褶は行雲流水の如く,設色は淡雅または画工繊細,“瓷壇の改七芗”と誉められた。 (注:改七芗は清代仕女絵の名人です。) 珠山八友の王大凡は彼の弟子。

胡顔標(1860-1931)字宏永,祖籍安徽歙县。粉彩名工。特芸は“古月軒”写し。山水花鳥人物とも上手。“没骨粉彩”技法の創立者。
彼の磁絵は詩画が並び、とも自作であり、品位高雅。市場価格は高い。人が呼ぶ“磁卜陣派”。
(近代”没骨粉彩”参考品)

補:70年代中南海専用磁水点桃花
1975年江西省中央指導部の指示の元で、新中国で陶芸の復興を目指して、景徳鎮に所在する中国軽工業部陶磁研究所に於いて、中南海(中央指導部所在地)専用の名目で新しいデザインの生活用薄手磁器を製作した。全部で5種類デザインがありました:
釉下彩:芙蓉対花碗,翠竹と梅、工笔勾勒翠竹と梅。
釉上彩:小写意水点桃花と水点梅花。
1996年北京の古陶磁オークションで一点120万円の価格で落札されました。”当代官窯品”と呼ばれるようになりました。その後、大量の写しが市場に出まわすようになりました。
特徴:
薄手、最高級地土と潔白で温かみの或る薄い表釉。小圏足、造形端正、装厳、新しい時代の風格あります。
紅色は粉彩よりもさらに薄いピンク色で、”水点”と呼ばれます。暈ける効果があります。基本的に明るい発色になります。
当代景徳鎮墨紅彩参考品一点
<全文完>